Dear Someone. -社会心理学概論-

社会心理学に関連する記事を載せていきます。

心の所在: 僕らの心はどこに?

「僕らは何かを考えて行動している。死んだら、『僕』という意識は消える。でも、寝ているときに夢を見るように、『僕』には無意識が働いている部分が明らかにある。だとしたら、僕達を動かしている『心』はどこかに・・・」

 

 お久しぶりです。ここ一ヶ月間、僕は自分の「心」に振り回されました。例えば何か締め切りを間近に働いているとき、人は「何かをやりたい」と思いながらも、身体が「もう休まりたい」という信号を出したり、資格試験などでの合格発表間際には、平静を取り繕うとしてもいつもと違うようなことをしてしまったりすると思います。そんな時僕らは、「自分の心に振り回される」などというのではないでしょうか。

「心と身体」を巡って

 「心と身体」の議論は、古くから関心のあるテーマでした。例えばプラトンは愛の対象を「肉体」と「」とに分け、前者よりも後者がより高尚な愛であると定義しました。また、アウグスティヌストマス・アクィナスといった「中世スコラ学派」の人たちは、「愛の秩序」を元に、魂についての理論化を試みています。「愛や道徳」などといった観念を考える上で、人の動力である「魂」の存在を語らないわけにはいかなかったのです。

 さて、心と身体が異なる存在として明確に語ったのはルネ・デカルト(1596-1650)でした。今では「心身二元論」と呼ばれるその理論は、「人間の心は機械に還元できない」として、「心」と「身体」を分けました。もっとも今ではもちろん「心身二元論」は否定されています。僕達の「身体」は「脳の働き」によって動いているのですから、「心」がどこか別の部分に具体的に"存在する"ことはないですよね。

 しかし、デカルトのこうした試みは、「心身二元論」を生み出した以上の意味が在りました。今でこそデカルトは否定されていますが、実は彼は、人間の身体を当時としては画期的だった、機械論的な見方を提示していました。デカルトの著作『人間論』には次のように記されています。

 

 この機械に見られるさまざまな機能を考えられたい。それは次のようなものだ。食物の消化、心臓の鼓動と血流、栄養摂取と身体の成長、呼吸、睡眠と目覚め、感覚器官からの光、音、匂い、熱などの受容、常識と想像力を司る器官における感覚刺激に基づく観念の刻印、それら観念の記憶への蓄積、食欲や情熱の喚起、感覚器官に提示された物体の運動にかくも適切に従う身体器官の動き、(中略)この機械の持つこれらの機能は、時計やその他の自動機械の動きが、釣合いおもりや車輪の性質に従うように、単純に身体器官の性質に従う。

 

  この文章からも分かるように、デカルトは人間の身体を「自動機械」のようなものだと想定し、分析を続けました。しかし彼は身体を機械論的な見方をおし進めれば進めるほど「人間はなぜ、神などの存在を想定できるのか」や、「人はどうして無限の反応をするのか」といった問いに答えられなくなっていきます。そうして苦し紛れに「」というものの所在を、脳の中間に位置する「松果体((1」の中に想定しました。そうすることによって、人は限られた資源の中で、無限の思考を働かせることが出来たと考えたのです。

心身二元論」の変遷

 「心身二元論」は、スピノザライプニッツへと批判検討されていきました。スピノザは、「心」と「身体」を分けて考えたデカルトに対して、「物質(身体)」も「精神(心)」も神の属性の一つに過ぎないといった「汎神論」的な考えを示しました。このような一元論的な見方は、「物心一元論」と呼ばれています。

 それに対し、ライプニッツは更に還元な見方を提示します。彼は宇宙を構成する最小単位に「モナド」という非物質的な(広がりを持たない)概念を想定しました。「モナドに窓はなし」という有名な言葉からも伺えるように、このモナドには相互に独立して宇宙を構成しています。このモナドが宇宙を映し出すことによって世界がこの形を保っているのであり、「心」や「身体」もその一部に過ぎないとしました。

 「心と身体の議論」はライプニッツによって一回落ち着きます。何故なら神を想定した心の分析は、「モナド」という極端な還元主義によって限界を迎えたからです。哲学的に「心の所在」を考えることが出来ても、それを実証するすべは在りませんでした。つまり、ライプニッツを超えるような理論が出来上がっても、生産的な議論を生み出すことは出来なかったのです

実験心理学」の成立

 心の分析が長らく哲学の管轄であった状況を一変させたのは、近代の心理学の父と呼ばれているヴィルヘルム・ヴント(1832-1931)でした。彼は、「心」をいくつかの心的要素の集まりだと考え、人間の意識を観察することで「人はどのように対象を認識するのか」を実証できると唱えました。そこで彼は「心の研究」に対しこれまでの哲学的手法を打ち捨て、自然科学の手法を取り入れました。具体的には、心理学実験室を研究のために設営し、実験によって被験者による「内省」から意識の研究を行ったのです。ヴントは「心」を実験によって分析するという初の試みから近代の心理学の父と呼ばれることになります。

 以上が、「心の所在」をめぐる議論の大まかなあらすじになります。長らく哲学的に留まっていた「心の所在」が、ヴントによって自然科学に取り入れられることで、「心」の研究は大きく飛躍することになります。具体的に言えば、意識という主観的な概念を一切排し、「刺激ー反射」から行動を予測しようとする「行動主義」や、人間の「無意識」の部分に焦点を当てて精神分析を行う「フロイト派」が生まれることになります。これについての詳細は次の記事で書きたいと思います。是非次回もお読みください。

 

「なあ、お前、今何を考えてんの?」

「んー、私はあなたのことが嫌いだと思って」

「え?それ結構ショックなんだけれど、はぁ、そうか…」

「(本当は好き。内省なんて当てにならないよね。その人がどう感じているかなんて本人にも分からないんだから)」

 

Next. 意識と無意識

--------------------------脚注

1. 「松果体」は、二つの大脳の間の中央部に位置している、赤灰色のグリーンピースほどの大きさしかない器官です。それは、セロトニン(攻撃性を抑制するホルモン)とメラトニン(体内時計や睡眠に関わるホルモンで、老化防止や性刺激ホルモンを抑制したりもする)を分泌します。もちろん、松果体には「心」は内在していませんが、これがなければ、性的早熟を引き起こしたり、極度の不安や睡眠障害を引き起こしかねないため、あながちデカルトの考察は間違っていなかった…とはいえないこともないんですかね…笑